中庸と中道
こんにちは
鍼灸・リラクゼーション
Healing room momoです。
今日は、中庸と中道についてのお話です。
東洋医学の太極のお話で『中庸』という考えが出てきます。
中庸とは・・・
(Weblioから引用)
太極図の回の続きにもなりますが
この世界は太極、二元の世界です。
天地
男女
静動
良い悪い
善悪
勝ち負け
強弱
・・・・・・・・などなど
この様なものが存在するというよりは、私たちの頭、思考、自我はこの二元をもとに世界を眺めます。
中庸は、この2つに分かれているように捉えられる極のどちらかに偏る事なく
一番バランスの良い真ん中と言う事ですね。
偏りが無い、過不足が無い。
身体のもともとの性質や、性格、後付けされた概念や価値観はひとりひとり違いますね。
だから、この中庸の地点も十人十色なのです。
食べ物や、お酒、甘いもの、偏りは無いか・・・
睡眠、運動に偏りは無いか・・・
考え方や、行動、人との付き合い方に無理や偏りは無いか・・・
社会の良い悪いではなく、自分自身の匙加減となる考え方かと思います。
中庸を見失い、どちらかに偏りが生まれると、結果として病という形で顕在化すると考えられてきました。
もう一つ、『中道』について。
中道は仏教の視点になります。
仏語。二つの対立するものを離れていること。不偏で中正の道。
原始仏教では苦行と快楽の両極端を退けた考え方。
竜樹の哲学ではすべてのものは空(くう)と観じること。
(weblioから引用)
2つのものの対立を離れていること。断・常の二見、あるいは有・無の二辺を離れた不偏にして
中正なる道のこと。中行、中路あるいは単に中ともいう。
(Wikipediaから引用)
そもそも、太極にも二元にも身を置かない視点。
良い悪い
善悪
幸不幸
この世は二元性であると分かっていながらも、そういう物差しって本当は無いよねという視点。
太極図を俯瞰して、抱くように眺めている様な視点。
あるのは知っているけど、無いとも知っている視点。
もしかしたら、生死感がひっくり返ってしまう視点。
この世の二元性って人間が作ったもので、ある程度は足並みを揃えるために大切なものの見方だと思います。
二元性はある意味、目に見えない枠組みです。
行き過ぎてしまうと、苦しみや生き辛さが出てくるのは自然なことです。
みんなもっと個性的なオリジナルな存在だから。
二元の概念は共通デザインの鳥籠みたいな物で、私たちは疑うこともなく、良い悪いの判断の鳥籠に入っちゃってる様な気もします。
なんとなく、鳥籠(二元の良い悪い)がより複雑で強固な物になってきていて、そこから外れたり出てしまうのを極端に怖がっているような気がします。
自分の内に入るという事をして感じるのは、鳥籠の無い状態や視点ってやっぱりあると思うということです。
籠のことも知っているよ、でも籠の外に出て自由に飛ぶこともできるというのが「中道」
なのかなと思います。
なんとなく、今までの二元的な考えが過度期を迎えたような気がしていて、それを超えたものの見方が
少しづつ少しづつ現れていくような気がしています。
今日は短いですが、このくらいにしますね。
下手な文章ですが読んでいただきありがとうございます😊
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