アドレナリン的な幸福感では無いもの
こんにちは
鍼灸・リラクゼーション
Healing room momoです(^^)
今日は、久しぶりに思考観察のお話です。
いつも何の気無しに湧き上がる思考は、何かを掴み取ったり、手に入れたり、結果を出したり、解決したりという働きがあります。
そういったことで安心し、落ち着きます。
信念や最先端のやり方を掴んだり、お金や物を獲得したり、
周りから評価されるような結果を出した!とか。
ああ、私は大丈夫なんだと。
それに加えて、自我(思考)は答えや根拠を出すといことも大好きです。
だから、社会はエビデンス!エビデンス!と色んなところに化学的な根拠を求めています。
まさに、今、世界で繰り広げられている事は私達の自我の性質そのものの様に見えます。
自我に振り回されて大騒ぎしているように見えます。
自我が好む、
何かを手に入れる
何かを掴み取る
結果を出す
答えを出す
エビデンスを出す
という働き。
これらは、一時的に安心したり満たされた感覚になり、凸と凹がガチャっと嵌まった様なスッキリとした幸福感が起こります。
ドーパミン、アドレナリン的な幸せ感覚です。
だけど、これらの働きは一時的であり、常に不足感を埋めようとする終わりの無い動きになります。
ドーパミンやアドレナリン的な、興奮を伴う一時的な幸せでは無い、もっと根源的で常に満遍なく存在する、安心感のような幸せがあるような気がします。
それは、自我の働きや良い悪いのジャッジを超えているので掴み取ることができません。
だけど、常に在るのです。
この掴み取ることのできない根源的な幸せは
まさに掴み取る働きが無いので、自我からしたら曖昧さや、支えの無い無防備さとして感じられます。
あえて、この曖昧な感じや、答えを出さないグニャっとした感覚、信念や希望を掴まない心許ない感覚を楽しんでみます。
答えも無い、理由も無い、結果も無い、ジャッジも無い、希望も無い、掴み取る物が無い。
そんな『余白』の部分に、何か本来の流れのような物があるような気がします。
私達と切っても切り離せない、当たり前過ぎて見落としてしまう自然な動きがあるような気がします。
陰陽も、良いも悪いも、ジャッジの無い、掴み取れない曖昧なもどかしい感覚があっても
それを迎え入れ、一緒にいてみるのも面白いかもしれません。
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