思考を使っているのか、思考に使われているのか
こんにちは^^
鍼灸・整体 momo鍼灸室です。
今日も思考について書いてみたいと思います。
私たちは常に何らかの思考をしながら生活しているかと思います。
だいたいどんな時も過去か未来のことを思考しています。
つい1時間前のこと、昨日のこと、何年も前のこと・・・(過去の事)
2・3時間先のこと、明日のこと、何年も先のこと・・・(未来の事)
「思考」は常に過去か未来のことしか焦点が当てられません。
肝心な「今」はどこにいったのでしょうか?
「今」この瞬間にしか私たちが関われる物は無いはずなのに
過去や未来(頭の空想のストーリー)のことにしか関心がありません。
空想のストーリーなのに、「今」にある全てよりも遥かにリアルに感じ、思考しています。
「今」にない妄想空想のストーリーを、驚くことに、ほぼどの瞬間も巡らせ
それに向き合っているのです。
無意識に。
私たちが思考をしている時はほぼ「無意識」状態なのです。
そして厄介なことに、この無意識に流れ続ける勝手な思考。
思考している時、なんとなく不快感があります。
不安感やイライラ、ソワソワ、憂鬱・・・
なぜだか不快なムードが一緒に流れています。
これにすら、私たちは当たり前になっていて慣れ切っています。
どうでしょうか?
なんとなく常に不快ではないですか?
なんとなく不安。
なんとなくイライラ。
なんとなく憂鬱。
なんとなくしんどい。
なんとなく満たされない。
当たり前のように感じるこの感覚。
不自然なのではないかと思うのです。
この不快なムードは常に身体に微妙な緊張を与えています。
徐々に身体はこわばっていきます。
思考するということが過剰になりすぎて歯止めが利かなくなっている。
勝手に思考しちゃってる。
ある意味脳のバグのような状態なのでは無いかと思うのです。
考えることに意味があって、考えることに価値があって
考えることで幸せになれるという人類全体の当たり前の認識の流れの中で
徹底的に沁みついていったあまりにも根強い無意識的な習慣。
〇自ら能動的に、過去を基に先の事を考える。
→思考を使うこと。
〇無意識に自動的に思考が始まって、まるでそこに本当にあるかのように
揺さぶられる・・・→思考に使わされている。
思考は使う道具であるはずなのに、私たち人間が思考に巻き込まれ使われて
なんだか苦しいという図が見えてきます。
思考の観察をしていて思うのは、ほとんどの勝手に流れる自動思考はスルーして大丈夫ということです。
それでも思考は自動に流れますが(^^;
あまりにも習慣化されていて当たり前になっていますが
まずは、勝手に流れる思考に気づいてみてください。
玄関で靴を履く瞬間。
車の運転の時。
仕事のふとした時。
料理をしながら。
お風呂に入りながら。
勝手に思考が始まります。
まずはそれに気づいてみます^^
思考を相手にしなくなると
いつもそこにあった軽やかさを再び感じることができます。
深い霧がはれたように^^
過剰な思考は当たり前にある静けさ、安心感のような物を厚く覆っているんですね。
まずは、自動思考に気づいてみます。
0コメント