命を所有しているという幻想。
こんにちは、鍼灸・リラクゼーションHealingroommomoです。
私の家は裏側に田んぼが一面に広がっており山に沈む夕日がとっても美しい場所にあります。
よくある田舎の景色なのですが、目の前を遮る建物や電線などが何もないのでいつ見てものびのびとした気持ちになるのです。
5月になれば田植えが始まり、その収穫まで成長する稲の様子をみることができます。
田んぼに水が張られ空を映し出す時も、一面鮮やか緑色になるときも、黄金色の稲が頭を垂れる時も
雪に覆い尽くされる時も、どれも私は心から大好きな景色なのです。
👆手前がジャングルみたいで水田風景が分かりづらいですね😅
変わらぬ美しい景色を見ながらこのコロナの騒動でさらに強く感じたことがあります。
自然は何も変わらないのに人間だけが異様に慌てふためいているということです。
何か自然界には、安定した、でも、変化し続ける大きな力みたいなものがあり、ただただその流れに任せて全部が生きている。
人間だけが違うシステムを採用して生きているので心がどこか重く、制限や制約の中で生きていて・・・
苦しい。
チューリップやタンポポは『死にたくない』ということはないのです。
猫やコアラが、自ら死を選ぶ事もないのです。
きっと、私達人間には『命を所有している』という感覚があるのでは無いかと思うのです。
1人、1人、個別の魂みたいなものがあって、それを所有して生きていると思っている。
私も当たり前にそんな風に思っていました。
そんな事考えるなんて、変人暇人なのかもしれませんが😂、疑う余地もないくらいに自然に信じて込んではいないでしょうか?
本当にそうなのでしょうか?
命を所有しているとすることで、私達は命をコントロールできるもの、コントロールしなくてらいけないと思って生きるのだと思うのです。
だから、今回のコロナの騒動では、1人1人が命を責任を持ってコントロールしなくてはいけなくて…
おそらく、チューリップや猫など人間以外の存在は、全体としての命そのものを生きているのではないかなぁ。
生とか死ってコントロールできないのではないかと思うのです。
もし、コントロールできるのであれば、そのように思い込んでいるだけなのかもしれません。
現代に生きる私達は、多くの物を所有することが幸せの価値基準だったりして、またそれらをコントロールする事が大切で、どこか疲弊している。
私も、その渦の中を生きていますが😅
このように、あらゆるものを所有する価値基準って、なんだかとても幻想みたいだなと感じることがあるのです。
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